一般社団法人にかほ市観光協会
〒018-0121 秋田県にかほ市
象潟町字大塩越36-1
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自然・歴史
おくのほそ道と象潟
場所:にかほ市象潟町
"象潟へ向かって"
『おくのほそ道』の序章には「松島の月先心にかかりて」とあり、また、日光の章では曾良を紹介しながら「このたび松しま·象潟の眺共にせん事を悦び」と記しているように、松島と象潟は旅の目的地でありました。
3月27日(陽暦5月16日)に江戸を発ち、目的地の一つである松島に着いたのは5月9日(陽暦6月25日)です。
待望の松島の風景に芭蕉は発句で表現できないほど感動し、その後もう一つの目的地である象潟を目指します。
6月15日(陽暦7月31日) 、小雨の中、酒田より象潟へ向かいましたが、吹浦に到る前で雨が激しくなり、象潟へ行くことを断念しています。
その日は吹浦の旅籠屋に宿泊し、晩には、明日に備えて番所に出向き、通行手形に裏判をもらっています。
"象潟での芭蕉主従"
6月16日(陽暦8月1日) 、芭蕉主従は雨の中吹浦から象潟に向かいました。女鹿の番所で通行手形を納め、難所の三崎山を通って小砂川に入りました。
途中で雨が激しくなったため漁師小屋で雨宿りし、有耶無耶の関を通り、念願の象潟がある塩越に着いたのは昼ごろでした。
旅人宿の能登屋を訪ねて休み、夕方に象潟橋(欄干橋)から雨の島々の景色を眺めています。
その日は熊野権現の祭りと重なり、女客で部屋がふさがっていたため、向かいの宿(向屋)に泊まることになりました。
翌日の17日は朝食後、雨の中蚶満寺に出かけました。その帰りに熊野権現の御輿の行列と出会い、行列が通り過ぎた後に熊野権現を参拝し、躍りが奉納されるのを見学しています。
昼からは雨も止み、夕食を済ませてから舟で潟めぐりをしています。18日は快晴となり、朝早く象潟橋まで行き、鳥海山の晴嵐を眺め、朝食後に塩越を発ちました。
"芭蕉が見た象潟"
芭蕉は『おくのほそ道』の中で、松島湾に広がる松島と鳥海山を背にした入り江の象潟に対照的な美を見出し、「松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし」と表現しています。
松島は快晴であり、象潟は雨であったこともそのような印象を与えたのでしょう。
そして、「寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやますに似たり」として、中国の悲劇の美女西施に想いを馳せ、「象潟や雨に西施がねぶの花」と詠んでいます。
これらの名文、名句により象潟は、雨が似合う、もの寂しげな愁いのある景勝地として広く知られるようになりました。
その象潟は、芭蕉が訪れた115年後の文化元年(1804)の象潟地震で隆起し、一夜にして陸になってしまいました。
現在島々は水田の中に点在し、水田に水が張られる春に往時の姿を偲ばせています。
旧佐々木家住宅(きゅうささきけじゅうたく)
場所:にかほ市院内
開館期間:4/1~11/30(入場、見学無料)
曲屋とは、農家が稲作の他に牛馬を飼い、養蚕もひとつ屋根の下で作業できる民家住宅です。
旧佐々木家住宅は、明治9年に建てられた南部系曲屋で、馬やの上に「ちし」と呼ばれる中二階(冬期間のわら仕事場)があり、小さな明かり取りがあることや、鍵型の家屋の内側に入り口がある等が特徴です。また、太い大黒柱が土間の一角に配置され、まわりで収穫された稲や大豆の収納作業が行われていました。
今では、人馬一体となった生活を伺うことができる家屋は少なく、貴重な民家となっています。
(にかほ市有形文化財<建造物>指定)
山根館跡(やまねだてあと)
場所:にかほ市院内
「山根館」は、別名「根城」とも言われ領主の居城(山城)でした。1085年、由利氏がこの地を拝領したときに築いたと云われています。その250年後、由利十二頭の1人である仁賀保氏の祖大井友挙(ともたか)が入城してから、7代135年にわたり仁賀保氏の居城でした。江戸時代初期に廃城になり、現在主郭の礎石や石畳が復元されています。この地は、標高200mにありにかほ市内と日本海が一望できます。
(秋田県指定史跡)
院内油田跡地(いんないゆでんあとち)
場所:にかほ市巾山
秋田県に油田があったことをご存じでしょうか。最近では、シェールオイルで話題になりましたね。院内油田は、1878年(明治11年)地質学博士ベンジャミン・ライマンによって発見され、1923年(大正12年)に採油開始。1931年(昭和6年)、仁賀保に平沢製油所を建設。1945年(昭和20年)には、年産11万キロリットルに達し最盛期を向かえました。以降1995年(平成7年)に産油量が減少し閉山するまで、約70年間日本の産業を支えてきました。
現在は、採取したやぐら、ポンピングパワー練(院内油田の採油方式)が当時のまま残されており、貴重な産業遺産となっています。
「院内油田」(近代化産業遺産)
海難者供養碑《地蔵様》(かいなんしゃくようひ)
場所:にかほ市金浦
この頃は海難事故が多く、中でも最も多くの死者を出したのが、1737年12月29日(江戸時代)の事故でした。正月を前に一度は網を引きたいと出漁した船が、大風、吹雪にみまわれ、86名もの遭難者が出ました。供養のために、石仏(阿弥陀如来座像)を建立、浄光寺(金浦)において開眼供養がおこなわれました。現在、3体の石仏が、海の見える小高い丘に安置されています。毎年8月29日の宵宮を、船主組合が営んで参詣者で賑わいます。
(にかほ市指定史跡)
三崎山旧街道(みさきやまきゅうかいどう)
場所:にかほ市象潟町
三崎山は秋田と山形の県境にあり、昔の峠は、「うやむやの関」別名地獄谷とも呼ばれる岩山を通る難所で、慈覚大師円仁が開いたと言い伝えられている。
旧道に露出している岩は、人々の往来で磨かれたようにすり減り、一里塚とともに歴史の古さと盛況を感じることができます。
この旧道を、芭蕉(奥の細道)や伊能忠敬(徒歩で日本測量)も歩きました。
「三崎山旧街道」(秋田県指定史跡)
「おくのほそ道の風景地 三崎(大師崎)」(国指定名勝)
仁賀保家陣屋跡(にかほけじんやあと)
1631年江戸時代初期仁賀保家は直参旗本として、江戸に在府し知行所の平沢に陣屋をおき、明治4年の廃藩置県まで続きました。陣屋は、役所、米蔵、牢屋などからなり西側、北側は堀で囲まれ西側正面に正門がありました。
現在、仁賀保公園と仁賀保神社・斎藤神社の境内となっています。社殿のある高台は中世、平沢館(由利氏居城)があったところで、十分に「お城」の雰囲気が感じられます。陣屋の遺構は、曲輪、堀が残っています。
仁賀保公園は、昭和10年~13年に斎藤宇一郎家の庭石を運び整備され、斎藤宇一郎先生の銅像をはじめ、多くの顕彰碑もあります。
池田五郎兵衛門扉(いけだごろうべいもんぴ)
場所:にかほ市大竹
伊勢居地生駒家(1659年、矢島生駒家、生駒高俊の嗣子高清が弟俊明に分地して興させた)の家老であった池田五郎兵衛家の屋敷門です。これらの屋敷門は江戸時代の厳格な階級に定められた格式を表し、地方では名主や家老また本陣にだけ許された門です。この門扉は、補修を加えながらも200年以上経過しており、近隣諸藩の武家の門でも現存するのはまれです。
(にかほ市指定有形文化財<建造物>)
沖の島方角石(おきのしまほうがくいし)
場所:にかほ市 金浦漁港内
金浦港は、漁港のみならず、廻船の風待ち港でもありました。方角石は、船頭が雲のわきたつ方角と風向きを見定め、出航可否を判断するために用いられました。この方角石は、単材形で鳥海石を用い地中埋め込み式で、方位目盛を刻んだ部分のみを円形平滑に加工し、下部は荒削りになっています。方位目盛りに十二支の目盛が刻まれているのは、全国的にも珍しく、金浦港の歴史の古さを物語っています。
(にかほ市指定史跡)
(日本遺産「北前船寄港地」構成文化財)
蚶満寺(かんまんじ)
場所:にかほ市象潟町
お寺の歴史は古く、寺伝によると853年(平安前期)慈覚大師円仁によって開創。1257年(鎌倉中期)時の執権北条時頼が、北国巡遊で訪れたとき寺領を寄進し再興したと伝えられています。そのため、中興の開基と敬われている北条家の家紋「三鱗紋」を寺紋とし屋根瓦にも刻まれています。
山門は江戸時代の建造で、中に矢島藩主生駒氏から寄進されたと伝えられる仁王像が安置されています。山門の瓦には、蚶満寺が閑院宮家の御祈願所となっていることから、菊の紋章が用いられています。
「蚶満寺山門」(にかほ市指定有形文化財<建造物>)
「芭蕉句碑」(にかほ市指定史跡) 「九十九島の碑」(にかほ市指定史跡)
陽山寺山門(ようざんじさんもん)
場所:にかほ市院内
曹洞宗総本山永平寺派に属する加賀(石川県)大乗寺の末寺の禅林寺六世竹陰是忠和尚が、1250年頃(平安末期)に創建したお寺。その山門は瓦葺きの楼門で、仁王像が安置され、別名 桜門と呼ばれ朱色と白、背景の緑のコンストラストがすばらしいです。
(にかほ市指定有形文化財<建造物>)
また庭園には、樹齢350年以上とされる紅白5種類のツツジがあり、毎年5月中旬見頃になります。
「ツツジ(陽山寺庭園)」(にかほ市天然記念物指定)
金浦西国三十三観世音菩薩(このうらさいごくさんじゅうさんかんぜおんぼさつ)
場所:にかほ市金浦、勢至公園周辺
1857年(安政4年)江戸時代末期、 黒船来航、安政の大獄などの事件があり、不安定な社会情勢の中、村の安全と発展を祈願するために造られました。観音像は、西国三十三所観音霊場(寺院)になぞらえて、観音様の向きを同じくし、台座の下には、各霊場から持ち帰った土が納められています。像の完成には3年かかり、村中総出で参道整備が行われました。像は勢至公園周辺にあり、そのお顔の表情はそれぞれです。春には秋田県で最初に桜が咲くこの地で、お気に入りの観音様を探してみませんか。
(にかほ市指定有形文化財<彫刻>)
金峰神社(きんぽうじんじゃ)
場所:象潟町小滝
856年慈覚大師円仁が鳥海大権現蔵王権現を奉じた時とされています。鳥海山を御神体とする修験の拠点の1つとされ、奈曽の白滝が神域(鳥海山)と下界の境界線と見られていたようです。境内から奈曽の白滝を見下ろす事ができ神聖なところであることがわかります。境内の宝物館には、木造観世音菩薩像や木造狛犬をはじめ、県指定文化財が展示されています。例大祭ではチョウクライロ舞が舞われます。
木造観世音菩薩像
像高が3.6mもある巨大な一木観音です。右手は垂れ、左手はひじを曲げて蓮華を持っています。杉の一本造りらしく黒い年輪がはっきり見えます。県内の大型の一本造りの仏像として代表的なものです。制作時期は平安時代後期と言われています。
(秋田県指定有形文化財<彫刻>)
木造狛犬
木造の阿吽一対の狛犬です。ヤナギ材の一本造で、像高44cm。制作は室町時代と思われます。阿形像は目を見開いて口を開け、今にも吠え掛かりそうな姿で、吽形像はあごひき、愛らしさを感じます。
(秋田県指定有形文化財<彫刻>)
浄蓮寺(じょうれんじ)
場所:にかほ市金浦
明治45年(1912)、アムンゼン(ノルウェー)やスコット(イギリス)と同じ頃、日本人初の南極探検を行い「大和雪原」に到達した「白瀬矗(のぶ)中尉」の生家。
境内に白瀬中尉と2匹のペンギンの像(昭和11年に東京芝浦埠頭公園に建立されたものを譲り受けたもの。にかほ市指定有形民俗文化財)、白瀬中尉のお墓(にかほ市指定史跡)があります。
勢至公園となりの竹島潟に、白瀬南極探検隊記念館があり当時の記録を見ることができます。
諏訪神社 鬼板(すわじんじゃ おにいた)
室町時代、「由利十二頭」と呼ばれた地元の領主たちの争いを鎮めるために、仁賀保氏の祖となる小笠原大和守大江重泰が信濃から下向しました。その時、守護神として諏訪大神を分霊しこの地に祀ったのが始まりと言われています。
神社本殿の左右の棟木に、鬼板がそれぞれあり、それは、社寺に入り込む災害を鬼面の威を借りて追い払う意味がありました。頭髪は巻き込み、おおぶりなのが特徴です。
境内の周囲には社寺林のタブ・シナノキの混生群落が広がり、南側斜面には南方系のタブ・ツバキ林、北側にはシナノキ・ケヤキ・カシワなどの樹木が配列され、小さな区域内に南北両系がはっきり区画されて混生しており、貴重な群落とされています。
6月の例大祭には、ここで「作占い」が行われます。
象潟祭典
地域:にかほ市象潟町
5月第3日曜に行われる熊野神社と古四天王神社のお祭りです。当番宅には,祭壇と置山(おもに神話や武勇伝など物語による人形飾り)が飾られ、入口には、大きな杉の門が設けられ、のぼり旗がたてられる。当日、御神輿が町内を練り歩き、各家々では、御神輿に初穂を上げ、家内安全や五穀豊穣を祈る。御神輿とは別に、神賑行事として車切(しゃぎり)曳山も町内をまわり、祭を盛り上げます。
シャギリ(車切)
地域:にかほ市象潟町
象潟祭典の日に、子供達による太鼓と花笠をかぶった舞子が、山車に乗って賑やかなお囃子で町内を巡り、祭りを盛り上げる。
昔、山中を通る山伏が、ホラ貝を吹き鳴らして獣を遠ざけたように、にぎやかな囃子を先頭にして、往来を遮るものを除けさせたのが、シャギリの由来です。
「中橋の車切」(にかほ市無形民俗文化財)
まんだらモチ占い
地域:にかほ市象潟町小滝
鳥海山の麓、小滝金峰神社本殿で1月7日の七日堂祭で行われる。当番講中で選ばれた年男が、神前に供えられた餅に米粒を散りばめて、まず、餅の厚み、餅肌の艶、米粒の広がり具合で、豊作、不作を占い、その後、餅の上にお札を被せ、四隅に火をつけて風を占います。最後に裏返して「社会情勢」を占います。この占いは良くあたると言われています。
アマノハギ
地域:にかほ市象潟町小滝
小滝集落に古くから伝わる、小正月行事で、ケラ(蓑)を身につけ、カマス(ワラで編んだ袋)を背負い、顔にはお面と「しやぐま」(毛)をかぶり、マサカリを持って、子供のいる家々をまわります。秋田県男鹿の「ナマハゲ」山形県遊佐町女鹿の「アマハゲ」と同じものであると言われています。集落の厄払いと子供達の健やかな成長を願って行われています。
サエの神行事
地域:にかほ市象潟町横岡、大森
サエの神(道祖神)とは、村の境界や峠にまつられ、外から悪鬼、疫病などが入り込まないよう境を守ると考えられていた神です。その行事は、上郷地区では小正月に、「サエの神(才の神と同じ)行事」、稲わらで作ったサエの神小屋を燃やした後、子供達が初嫁棒をかつぎながら、鳥追いの唱をうたい家々を回り、初めて正月を迎えるお嫁さんの家の、子孫繁栄を願ってお嫁さんを棒でつつく動作をする「嫁つつき」と豊作祈願の「鳥追い」の行事が一緒に行われるという珍しいものです。
『重要無形文化財』
「上郷の小正月行事」(国指定重要無形民族文化財)
久斯神社(くすじんじゃ)祭典
地域:にかほ市小出
白雪川沿いの樋ノ口集落に鎮座する久斯神社には、慈覚大師が刻んだと言われる薬師如来についての縁起があり、明治になってからは西小出にあった各集落社が合祀されて現在に至っています。9月の第2日曜日の例祭には、御神輿渡行列が簡略化されながらも昔ながらの状態で行われます。その行列には、笛の囃子に化粧した男児たちが太鼓をたたき、その前に道化役の若者たちが鉦を鳴らし露払いをするシャギリがつきます。このシャギリも、衣装を含め昔どおりに伝承されています。
「久斯神社シャギリと御神輿渡行列」(にかほ市指定無形民俗文化財)
金浦山神社(このうらやまじんじゃ)祭典
地域:にかほ市金浦
5月第2土耀、日曜の2日間行われる、金浦山神社のお祭りです。当番宅には,祭壇が飾られ、入口には、大きな杉の門がもうけられ、のぼり旗がたてられる。日曜日に御神輿が町内を練り歩く。各家々では、御神輿に初穂を上げ、家内安全や五穀豊穣を祈る。御神輿とは別に、神賑行事として金浦神楽、踊り山・車切(シャギリ)が2日間、町内をまわり、祭を盛り上げています。
作占い
地域:にかほ市象潟町関
6月の諏訪神社祭礼には、応仁元年(1467)の創建当初から伝わるお試し神事という「作占い」があります。祭礼の一週間前に、二間四方の柵で囲われ、その内側を約1メートル掘り下げた窪地(神事を行う場所)に土壇を造り、雑木で鳥居を立て、御幣の根本には1合5勺の米を盛り上げておきます。これを「お試し場」と言い、祭礼当日、世話人が米の崩れ具合や変化で作柄の吉凶を占います。関村内ばかりでなく、旧仁賀保郷全体の豊凶が占われるのも珍しいものです。
迎え火・送り火
地域:にかほ市象潟町
象潟盆小屋行事で、象潟海水浴場周辺でワラや木で祭壇を備えた盆小屋を作り、8月12日夜、盆小屋のそばで「迎え火」を焚いて、先祖を迎えます。15日夜には、盆小屋そのものを燃やし、「送り火」として霊たちを送ります。家族を大事にし、祖先を敬ってきた夏の風物詩です。
「象潟の盆小屋行事」(国の記録作成等の処置を講ずべき無形の民族文化財)(にかほ市指定無形民俗文化財)
酒飲み占い
地域:にかほ市象潟町関
諏訪神社で正月元旦に行われる神事で、関地区内の、町村、奥村、川村、建石の四地域からの代表が飲み比べをします。1升はいる朱塗りの大杯に、なみなみとお酒をつぎ、神前で、飲みっぷりや飲んだ量で占います。一番多く飲んだ人の集落の稲が豊作になると言われています。
初午
地域:にかほ市象潟町
京都・伏見稲荷神社に神が降りたと言われる2月、最初の午の日に行われる行事です。稲荷信仰で獅子舞を神社に奉納、豊作や火難除けなどを祈願します。象潟の秋葉稲荷では、子供達だけで行われ、太鼓、大夫、ジャガと呼ばれる鳴りもの、それに獅子舞とそれぞれの役割をこなす形で、稲荷神社の紅白の旗を先頭に町内の家々を回り、家内安全、商売繁盛を祈願する行事です。
石持ち占い
地域:にかほ市象潟町横岡
稲倉宇賀神社で二百年以上前から伝わる初午行事で、2月6日夜と7日に行われます。子供達の獅子舞が主体ですが、「よごもり」といって6日夜に神社に参拝に訪れた氏子たちが、お神酒を飲んだ後、「男石」(約4kg)「女石」(約3kg)と呼ばれる平らな石を片手で持ち上げ、豊作を祈願します。通年、年配者はなかなかもちあげられませんが、若者が一気に持ち上げると、「上作、上作」という歓声が起こります。
仁賀保神社・齋藤神社祭典
地域:にかほ市平沢
仁賀保神社は、仁賀保氏がこの地に移り住んだときに、始祖「友挙」と中興の祖「挙誠」を祭った邸内神でした。明治維新の頃には荒廃しかけていたのを、明治15年、斎藤茂助(仁賀保氏重鎮の家柄、にかほ市平沢の大地主)をはじめ有志で、にかほ家陣屋跡(現、仁賀保公園内)に社殿を建てて再興しました。
斎藤神社の由来は、戦後斎藤宇一郎(父である斎藤茂助の意をついで秋田県に「乾田馬耕」を推し進め農業改革に尽力、23年間国会議員を勤め、農村改革、鉄道・港湾の誘致にも力をいれ、にかほ市、秋田県の発展の基礎を築いた)を「神」として末永く遺徳をしのびたいという声が高まり、昭和25年仁賀保神社にまつられました。
7月例祭行事が境内の祭壇で行われます。子供たちが、神社の前で郷土の偉人「斎藤宇一郎先生を讃える歌」を歌ったり、子供たちの奉納相撲など行事が行われます。
三森弁天祭
地域:にかほ市三森
幕末の文政年間、三森集落で遭難しかかっていた秋田藩の御用船を、高昌寺住職はじめ地元の人たちが助けました。秋田藩では救助のお礼として遭難船と同じ型の模型船を高昌寺に奉納しました。昔、高昌寺は弁天沼のほとりに建ってたといわれ、弁財天は、この中島の弁天堂に祀られていました。弁財天は、水神とも言われ、河川や海を守る神です。このような縁で模型船は弁天丸と名付けられました。
お祭りの当日は、地元の漁師たちが集まり弁天丸を御神輿としてかつぎ、町中をねりあるきます。
七高神社例大祭
地域:にかほ市院内
七高神社は、仁賀保氏が院内に山根館を築いたとき守護神とし、仁賀保領内の惣鎮守とした。大物忌大神、七高山(鳥海山)そのものを祭っている。
例大祭は、山の神(鳥海山の神)を田の神として迎える稲作農耕祭りの意味合いが強かったと思われます。当番宅に迎えた神の前で巫女が舞を奉納した後、白装束の氏子たちに担がれて始まる神輿の御渡。神輿は、子供たちに先導されて集落内を巡航します。
七高神社獅子頭
地域:にかほ市院内
獅子頭は七高神社宝物殿に安置され、1月7日の七日堂御頭神事の時だけ、獅子頭巡行で子たちが幕の内に入って、院内地区を練り歩きます。獅子頭は、舌と顎が一体で、牙は前歯の近くにあり、耳は横向きに倒れています。頭部の裏側に「明暦三丁酉(1657年)」の銘告があり江戸初期の古いものです。
『秋田県指定有形民俗文化財』
掛魚(かけよ)まつり
地域:にかほ市金浦
金浦は、昔「木の浦」と呼ばれた天然の良港で、江戸時代初期から鱈漁が盛んに行われました。しかし、この時代の天候予測は難しく、真冬の漁には危険や犠牲が多かった。そのため、漁師たちが漁獲の一部を奉納して感謝をささげ、海上安全と豊漁を祈願したのが始まりとされています。
まつり当日は、神楽を先頭に、大小のたら(20~30本)をかついだ若者や子供たちが、漁協から金浦山神社まで、町内約2km練り歩き、神社の階段を登り社殿に奉納される。勢至公園では、たら汁を食べることもできます。
毎年2月4日(立春)午前中、金浦山神社社頭で行われる「掛魚まつり」は、「たらまつり」とも呼ばれ全国に紹介されています。
金浦の「たら」は「はたはた」とともに冬の味覚を代表する名物とされています。
チョウクライロ舞
地域:にかほ市象潟町小滝
金峰神社(通称 蔵王権現)の例大祭(6月第2土曜日)で舞われています。
由来は、鳥海山に住む「手長足長」という悪鬼を、慈覚大師円仁が、「鳥海山大権現」と「蔵王権現」(現 金峰神社 山岳信仰である修験道の本尊) に祈願して退治しました。その感謝のしるしに「立木観音像」を安置し、「陵王、納曽利の面」を造り、五十三段の石坂と土舞台を築き、舞を演じたのがはじまりと云われています。
チョウクライロとは、「小児の舞」で唱えられる囃子言葉からとられたもので、別名「チョウクライロの舞」と呼ばれ「長久生容」とも書き、「長く久しく生きる容(すがた)」を意味し、延命長寿を願うものであると云われています。
「小滝のチョウクライロ舞」(国指定重要無形民俗文化財)
演目
- 九舎の舞
- 五穀豊穣を願う舞
- 荒金の舞
- 世の中の平和を願う舞
- 小児の舞
- 延命長寿を願う舞
- 太平楽の舞
- 人倫を尊ぶ舞
- 祖父祖母の舞
- 夫婦和合が万物生成の根元を教える舞
- ぬぼこの舞
- 国造りの舞
- 閻浮の舞
- 万国を豊潤幸福にする舞
鳥海山小滝番楽
地域:にかほ市象潟町小滝
6月の金峰神社例大祭の宵宮と8月13日
この番楽の草創は、明らかではないが、番楽のお面に「万治二年」(1659年)とあることから、中世末から近世初頭に存在したと考えられています。山形県遊佐町「杉沢比山舞」と同系番楽とされ、唯一、近隣の「本海流番楽」からの伝承がなく、独自の舞として発達した番楽です。鳥海山を祭祀する小滝修験を中心に演じられました。
「鳥海山北麓の獅子舞番楽」(国の記録作成等の処置を講ずべき無形の民族文化財)
(秋田県指定無形民俗文化財)
演目
- 式舞
- 番楽 翁 吉田 松迎
- 神舞
- 三人立
- 武士舞
- 熊谷次郎直実 大江山 田村 熊谷・敦盛、鎧揃え
- 道化舞
- 品ごき太郎 一人餅つき 四人餅つき さつま 空臼舞
冬師番楽
地域:にかほ市冬師
8月14日初棚供養と8月19日竜馬山神社奉納で演じられます。
冬師番楽の起源は定かではありませんが、「平家の落武者がこの地に土着し、狩りや農耕のかたわら女房たちが、習い覚えた舞や踊りが子孫に遺されてきた」という説と、もう一つは「生国不明の兄弟二人が流れつき、兄は坂之下(現在の矢島町)弟は冬師に住んで番楽を伝えた」という説があります。いずれにせよ、現在、にかほ市に伝承されている番楽3団体(冬師番楽、伊勢居地番楽、釡ヶ台番楽)は、江戸時代初期の寛永年間(1624~1644)頃、京都醍醐寺三宝院の山岳修験僧本海が、獅子舞と番楽を一体化し芸能として伝えた「本海流番楽」を荒沢番楽、坂之下番楽(由利本荘市矢島町)に直伝し、そこから伝えられたと言われています。
「鳥海山北麓の獅子舞番楽」(国の記録作成等の処置を講ずべき無形の民族文化財)
(秋田県指定無形民俗文化財)
演目
- 獅子舞
- 御獅子
- 式舞
- 鳥舞 翁 三番叟(さんばそう)
- 神舞
- 三人立
- 道化舞
- 番楽太郎
- その他
- ばくち舞 空臼舞
伊勢居地番楽
地域:にかほ市伊勢居地
7月23日 遊仙寺延命地蔵尊祭の宵宮と六夜待ちで演じられます。
仁賀保地区で伝承されている3団体(冬師番楽、伊勢居地番楽、釡ヶ台番楽)の番楽は、いずれも京都醍醐寺三宝院を本拠とする山岳修験の流れをくむ本海坊が、獅子舞と番楽を一体化し芸能として伝えた「本海流番楽」と云われています。
伊勢居地の村民が、番楽を習得するために矢島町荒沢(由利本荘市)まで通ったことが、荒沢集落にある石碑に記されています。さらに、下百宅番楽{由利本荘市百宅(ももやけ)}からも水岡野獅子舞を伝授されているので、伊勢居地番楽の特徴は、二つの番楽の要素を併せ持っているところにあります。
獅子頭には、矢島藩主生駒氏の定紋がついてます。
「鳥海山北麓の獅子舞番楽」(国の記録作成等の処置を講ずべき無形の民族文化財)
(秋田県指定無形民俗文化財)
演目
- 獅子舞
- 神舞 やさぎ獅子
- 式舞
- 番楽 鳥舞 翁 吉奈戸
- 武士舞
- 熊谷次郎
- 女舞
- 蕨折り
- 道化舞
- 番楽太郎 よらしゃら うれしき舞 三人餅つき
- その他
- 空臼舞
釜ヶ台番楽
地域:にかほ市釡ヶ台
8月14日 初棚供養 20日 二十日盆供養(釡ヶ台多目的会館)で演じられます。
釡ヶ台に伝承された時期は定かではありませんが、拍子が五拍子で、舞が入念であることなどから、本海坊の若いころの伝授とされています。
「鳥海山北麓の獅子舞番楽」(国の記録作成等の処置を講ずべき無形の民族文化財)
(秋田県指定無形民俗文化財)
演目
- 獅子舞
- 神舞 獅子 やっちゃぎ獅子
- 式舞
- 排舞 鳥舞 翁 二人舞 さんば
- 神舞
- 三人立
- 武士舞
- 熊谷次郎 牛若弁慶
- 女舞
- 若子舞
- 道化舞
- 番楽太郎 さかさま番楽 餅つき
- その他
- ばくちさんば 四人空臼
大森歌舞伎
地域:にかほ市象潟町大森
大森に伝えられた年代は不明ですが、矢島領であったころ領主の生駒氏が好んだ芸能でもあり、それで舞台芸や番組芸能が広まり、伝承されたのではないかと云われています。
忠臣蔵五段目「山崎街道」の一場面を演じる芝居で、以前は、稲刈り前に大森新明社の境内にやぐらを組み、豊作を祈願して、代々神楽の獅子舞が各家々を回った後に演じられるものでした。現在は、7月の第3日曜、大森神明社の祭典で行われています。
村歌舞伎として残っているのは、県内でも珍しく貴重な民俗芸能です。
(にかほ市指定無形民俗文化財)
金浦神楽(このうらかぐら)
地域:にかほ市金浦
起源は定かでありませんが、元町の北の黒川集落に、約400年前京都から来た奉公人によって伝えられたという説と、江戸時代末期、黒川の若者が庄内に渡り、山伏系番楽神楽を身につけて黒川神楽を生み出したという説があります。長年、黒川集落伝承されてきましたが、戦後元町の若者たちが町を盛り上げようと、神楽を習得し、豊作、豊漁、家内安全を祈願して金浦山神社(このうらさんじんじゃ)に奉納行事として復興させました。太鼓を背にして打つ神楽は全国でも珍しいそうです。
5月の第2土曜、日耀、金浦神社祭典のとき、当番町(元町8町内でしたが、少子化高齢化のため、現在2町合同2組になり、6町持ち回り)の子供たちが、2日間に渡り各家々をまわって演技します。その他にも神楽保存会があり、にかほ市内外のイベントで演技を見せています。
(にかほ市指定無形民俗文化財)